豊臣秀吉の誓約状、歴史上の大きな意外を暴露
東京大史料編纂所の調査により、秀吉の誓約状が明智光秀討伐の翌日付で記されたことがわかりました。毛利氏と対立していたさなか、毛利氏の縁戚が織田側に寝返ったことへの見返りを約束する内容。
誓約状は天正10年6月3日に上原元将(毛利元就の娘婿)に出されたもので、毛利氏を裏切ったり、信長に忠誠を尽くすことなどを約束していた。ただし、本能寺の変を受け、秀吉は4日以降から信長の死を知っていたとされている。しかし、実際の誓約状は4日以降のもので、約束が果たされなかったことがわかりました。
この経緯から、村井祐樹准教授は「大きな混乱の中でも、臨機応変に対応した秀吉の決断力が垣間見える」と指摘しています。
東京大史料編纂所の調査により、秀吉の誓約状が明智光秀討伐の翌日付で記されたことがわかりました。毛利氏と対立していたさなか、毛利氏の縁戚が織田側に寝返ったことへの見返りを約束する内容。
誓約状は天正10年6月3日に上原元将(毛利元就の娘婿)に出されたもので、毛利氏を裏切ったり、信長に忠誠を尽くすことなどを約束していた。ただし、本能寺の変を受け、秀吉は4日以降から信長の死を知っていたとされている。しかし、実際の誓約状は4日以降のもので、約束が果たされなかったことがわかりました。
この経緯から、村井祐樹准教授は「大きな混乱の中でも、臨機応変に対応した秀吉の決断力が垣間見える」と指摘しています。