福井県小浜市にある老舗料亭「平八茶屋」は、安土桃山時代に創業し、今も宿泊も可能な料亭として営業しています。敷地には高野川や庭園を望む数寄屋造りの建物が複数あり、歴史感のある雰囲気を味わえるかま風呂も設けられています。
平八茶屋は、時代とともに変化してきました。創業時は街道で旅人を迎えていた茶店でしたが、明治期には鉄道の通ったことで、街道が廃れて川魚料理専門店に転換しました。しかし、これも時代別変化の一つとなり、今度は川魚が敬遠されるようになったことや海に近い京都でも冷蔵や流通が整うため、新鮮な海の魚が手に入りやすくなったことから、20代目の園部晋吾さんが、日本海で得られるぐじを使った料理を「若狭懐石」として提供しています。
かつて店の主力だった川魚料理は今ではわずかな人が懐しながら注文しているそうです。ほかに、昔旅人が食事をしたあと、畳にゴロンと横になって休憩していた茶店でもありましたが、1970年に届けを出して本格的に宿泊業務を始めました。現在は一日限定で2組の宿泊を受け入れており、食事から宿泊や結婚式などに対応するため、一日中さまざまな仕事をこなしています。
园部さんは、15年前の40歳のときに社長になったのは、それから20年後の今でも襲名はしていません。現在、父である会長の園部平八さんが、20代目として創業者平八の名前を襲名しています。
园部さんは大学を卒業してから3年間、大阪の老舗料亭「花外楼」で修業しました。「なかなか厳しいところでしたが、修業に行ってとても良かった。人につかわれることや先輩から指導されることがどういうことなのかわかりましたし、今までわからなかったうちの店のいいところや悪いところがはっきりわかるようになりました」と話します。
平八茶屋では京都高島屋で惣菜やおせちなどの販売をしており、午前中で売り切れるほど人気ですが、店舗の展開は考えていないと言います。「私自身、自分の目の届くところで物事をやらないとできないと思います。継続と拡大のどちらを取るかと言われたら、私は継続を選びます。料理人が経営をしているだけで、真の経営者ではないので」と、園部さんのなりの揺るがない基準がここにも。
園部さんは、父に家業を継げと言われたことはなかったそう。代々そうであったように、小さい頃から店の敷地内で育ちました。「父母から言われなくても、小さい頃から、周りの人たちに『あんたしっかりここをやらなあかんで』とか『若旦那』って呼ばれていると、自分は若旦那なのかな?って思うわけです(笑)。ある意味洗脳ですね。反発する気持ちが湧くこともありましたが、最終的に自分が継ぐのが、自分にも周りにもしっくりいく形なのかなと思いました。店にも愛着がありますし。息子もここで生活したので洗脳されたのか、今のところ継ぐと言ってくれていますので、ありがたいと思っています」。
現在24歳、後継ぎとして次期社長を期待される息子は今は別の料理店で修業中です。「うちとは違ったものを学んでくるのではないかと思って楽しみにしています」と園部さん。
修業先では新しいことを吸収してお店が変わってしまう心配はないのか聞いてみると、「うちは当代が店の味やスタイルを決めていくので、変わっていくのはOKです。私も父を全否定するのではなく、父のやってきたもので納得いくものは残しつつ、納得いかないものは変えていきました。とろろの味やだしの味も変えました。ですが不思議なもので、私は変えているつもりですが、お客様は『ここは変わらへんなって』って言ってくださる。そういうものなのかな…と」と穏やかに話します。
息子は、あと2〜3年で修業先から帰ってくる予定です。そのあとは、息子が40歳になるまでには店を引き継ぎたいと考えています。それまでに建物の古くなった部分などを修繕して、なるべく息子がそう言う心配をしないでもいい状態で引き渡したいと園部さん。実際入口に建つ築400年以上の「騎牛門」や「かま風呂」の修繕をすでに完了させています。
そして、「息子にもできたら敷地内に住んでほしい。それはできたら孫が将来この店をやりたいと思ってもらうためでもあります。住んでいると、店に対する愛着もわいてくるので」と、老舗料亭の未来への想いを明かしました。
️平八茶屋HP https://www.heihachi.co.jp
平八茶屋は、時代とともに変化してきました。創業時は街道で旅人を迎えていた茶店でしたが、明治期には鉄道の通ったことで、街道が廃れて川魚料理専門店に転換しました。しかし、これも時代別変化の一つとなり、今度は川魚が敬遠されるようになったことや海に近い京都でも冷蔵や流通が整うため、新鮮な海の魚が手に入りやすくなったことから、20代目の園部晋吾さんが、日本海で得られるぐじを使った料理を「若狭懐石」として提供しています。
かつて店の主力だった川魚料理は今ではわずかな人が懐しながら注文しているそうです。ほかに、昔旅人が食事をしたあと、畳にゴロンと横になって休憩していた茶店でもありましたが、1970年に届けを出して本格的に宿泊業務を始めました。現在は一日限定で2組の宿泊を受け入れており、食事から宿泊や結婚式などに対応するため、一日中さまざまな仕事をこなしています。
园部さんは、15年前の40歳のときに社長になったのは、それから20年後の今でも襲名はしていません。現在、父である会長の園部平八さんが、20代目として創業者平八の名前を襲名しています。
园部さんは大学を卒業してから3年間、大阪の老舗料亭「花外楼」で修業しました。「なかなか厳しいところでしたが、修業に行ってとても良かった。人につかわれることや先輩から指導されることがどういうことなのかわかりましたし、今までわからなかったうちの店のいいところや悪いところがはっきりわかるようになりました」と話します。
平八茶屋では京都高島屋で惣菜やおせちなどの販売をしており、午前中で売り切れるほど人気ですが、店舗の展開は考えていないと言います。「私自身、自分の目の届くところで物事をやらないとできないと思います。継続と拡大のどちらを取るかと言われたら、私は継続を選びます。料理人が経営をしているだけで、真の経営者ではないので」と、園部さんのなりの揺るがない基準がここにも。
園部さんは、父に家業を継げと言われたことはなかったそう。代々そうであったように、小さい頃から店の敷地内で育ちました。「父母から言われなくても、小さい頃から、周りの人たちに『あんたしっかりここをやらなあかんで』とか『若旦那』って呼ばれていると、自分は若旦那なのかな?って思うわけです(笑)。ある意味洗脳ですね。反発する気持ちが湧くこともありましたが、最終的に自分が継ぐのが、自分にも周りにもしっくりいく形なのかなと思いました。店にも愛着がありますし。息子もここで生活したので洗脳されたのか、今のところ継ぐと言ってくれていますので、ありがたいと思っています」。
現在24歳、後継ぎとして次期社長を期待される息子は今は別の料理店で修業中です。「うちとは違ったものを学んでくるのではないかと思って楽しみにしています」と園部さん。
修業先では新しいことを吸収してお店が変わってしまう心配はないのか聞いてみると、「うちは当代が店の味やスタイルを決めていくので、変わっていくのはOKです。私も父を全否定するのではなく、父のやってきたもので納得いくものは残しつつ、納得いかないものは変えていきました。とろろの味やだしの味も変えました。ですが不思議なもので、私は変えているつもりですが、お客様は『ここは変わらへんなって』って言ってくださる。そういうものなのかな…と」と穏やかに話します。
息子は、あと2〜3年で修業先から帰ってくる予定です。そのあとは、息子が40歳になるまでには店を引き継ぎたいと考えています。それまでに建物の古くなった部分などを修繕して、なるべく息子がそう言う心配をしないでもいい状態で引き渡したいと園部さん。実際入口に建つ築400年以上の「騎牛門」や「かま風呂」の修繕をすでに完了させています。
そして、「息子にもできたら敷地内に住んでほしい。それはできたら孫が将来この店をやりたいと思ってもらうためでもあります。住んでいると、店に対する愛着もわいてくるので」と、老舗料亭の未来への想いを明かしました。