福尾匠著『置き配的』(SNSに潜む構造)が一着で、近年のSNSのあり方を分析し、その息苦しさを炙り出すものである。
本書は、郵便における情報の流れとSNSにおける情報の流れを比較したものである。福尾匠によれば、従来の郵便において、情報が差出人から受取人まで渡る間に誤配が起こり得る仮想的な時間が存在する。しかし、配達物の情報を随時追跡することができ、それに伴う仮想的な時間は、写真とともに通知される置き配において、存在しない。
したがって、SNS上でも同様の構造が発生している。言葉が何かを伝えるとき、書き手と読み手の間に誤配の可能性が開かれる。しかし、近年のSNSには、スクリーンショットなどによって言質を取り、相手を属性によってカテゴライズし、言葉をパフォーマンスとして捉える傾向がある。福尾は、このような状況を「置き配的なもの」と名づけ、それがいかに批評を萎縮させているのかを指摘する。
本書の時代診断は犀利である。一方で、解決への糸口として「批評の二次性」が強調されるが、それが現在のSNSにおいてどのように成立しうるか分からなかった。
また、事態を置き配に譬えると、必ずしも見えなくなることもある。たとえばスクリーンショットが多用されるのは、ポストが後から抹消されうるからだろう。引用リポストが多用されるのは、ポストの投稿者のプロフィルへと閲覧者を誘導するためだろう。この構造は配達方法としての置き配にはない。もしも置き配的なものが社会において全面化しているのだとしたら、そこに潜むこうした「非置き配的なもの」がいかなる力を持つのだろうか。
日記的であることを強調する本書は、首尾一貫した理論の提示を目指してはいないのだろう。連続的に瞬発する知性は読者を幾重にも触发するはずだ。
本書は、郵便における情報の流れとSNSにおける情報の流れを比較したものである。福尾匠によれば、従来の郵便において、情報が差出人から受取人まで渡る間に誤配が起こり得る仮想的な時間が存在する。しかし、配達物の情報を随時追跡することができ、それに伴う仮想的な時間は、写真とともに通知される置き配において、存在しない。
したがって、SNS上でも同様の構造が発生している。言葉が何かを伝えるとき、書き手と読み手の間に誤配の可能性が開かれる。しかし、近年のSNSには、スクリーンショットなどによって言質を取り、相手を属性によってカテゴライズし、言葉をパフォーマンスとして捉える傾向がある。福尾は、このような状況を「置き配的なもの」と名づけ、それがいかに批評を萎縮させているのかを指摘する。
本書の時代診断は犀利である。一方で、解決への糸口として「批評の二次性」が強調されるが、それが現在のSNSにおいてどのように成立しうるか分からなかった。
また、事態を置き配に譬えると、必ずしも見えなくなることもある。たとえばスクリーンショットが多用されるのは、ポストが後から抹消されうるからだろう。引用リポストが多用されるのは、ポストの投稿者のプロフィルへと閲覧者を誘導するためだろう。この構造は配達方法としての置き配にはない。もしも置き配的なものが社会において全面化しているのだとしたら、そこに潜むこうした「非置き配的なもの」がいかなる力を持つのだろうか。
日記的であることを強調する本書は、首尾一貫した理論の提示を目指してはいないのだろう。連続的に瞬発する知性は読者を幾重にも触发するはずだ。