「日本人の「作法」」は浜崎洋介が著した本。サブタイトルには「その高貴さと卑小さについて」とあるが、著者はもちろん単純な「日本」礼賛者ではない。
明治以降の日本が西欧に倣わなければ国家を形成することができず、そのことで日本人の伝統や自然観を失ってきたことを思えば、「愛国としての反日」という姿勢こそこの国を真剣に考えるとき、選択せざるを得ないことになる。近代日本の矛盾や分裂に耐えつつ、その「醜さ」を直視する。つまり「高貴さ」だけでなく、むしろ「卑小さ」とも対峙し、その正体を見極めることが求められる。
この覚悟をもって言論の闘いを為してきたのは文学者である。本書で論じられているのも森鷗外、菊池寛、小林秀雄、吉田健一、江藤淳、大岡昇平といった面々である。なぜ文学者なのか、著者の考えは明確である。
「私を守ることは、そのまま私の言葉を守ることであり、私の言葉を守ることは、そのまま日本語を守ることでなくてはなるまい。そして、日本語を守ることは、同時に日本の歴史へと踏み入り、その自然を味わおうとすることでもあった」
本書では文芸批評家として福田恆存や小林秀雄、三島由紀夫らを論じた評論集も刊行されており、戦後の進歩的知識人と呼ばれた学者に左翼が多かったのに比べて保守思想の立場を堅持したその文学者たちは、知識の分量よりも言葉(日本語)によっていかに表現するかという営為に力を尽くしたからである。
そして哲学者の西田幾多郎が論じられているのは興味深い。西田は西欧哲学を徹底して受容しつつ、仏教(禅の思想)を基盤とした日本人独自の哲学の文体を確立した。日本人の「作法」とは、つまりは言葉の「高貴さ」の持続力なのである。本書の最後で論じられる現代の政治家たちの「空虚」さは、この言葉を、すなわち歴史を持たぬ「卑小さ」に他ならない。
				
			明治以降の日本が西欧に倣わなければ国家を形成することができず、そのことで日本人の伝統や自然観を失ってきたことを思えば、「愛国としての反日」という姿勢こそこの国を真剣に考えるとき、選択せざるを得ないことになる。近代日本の矛盾や分裂に耐えつつ、その「醜さ」を直視する。つまり「高貴さ」だけでなく、むしろ「卑小さ」とも対峙し、その正体を見極めることが求められる。
この覚悟をもって言論の闘いを為してきたのは文学者である。本書で論じられているのも森鷗外、菊池寛、小林秀雄、吉田健一、江藤淳、大岡昇平といった面々である。なぜ文学者なのか、著者の考えは明確である。
「私を守ることは、そのまま私の言葉を守ることであり、私の言葉を守ることは、そのまま日本語を守ることでなくてはなるまい。そして、日本語を守ることは、同時に日本の歴史へと踏み入り、その自然を味わおうとすることでもあった」
本書では文芸批評家として福田恆存や小林秀雄、三島由紀夫らを論じた評論集も刊行されており、戦後の進歩的知識人と呼ばれた学者に左翼が多かったのに比べて保守思想の立場を堅持したその文学者たちは、知識の分量よりも言葉(日本語)によっていかに表現するかという営為に力を尽くしたからである。
そして哲学者の西田幾多郎が論じられているのは興味深い。西田は西欧哲学を徹底して受容しつつ、仏教(禅の思想)を基盤とした日本人独自の哲学の文体を確立した。日本人の「作法」とは、つまりは言葉の「高貴さ」の持続力なのである。本書の最後で論じられる現代の政治家たちの「空虚」さは、この言葉を、すなわち歴史を持たぬ「卑小さ」に他ならない。