広島新生学園 80年を迎える マラリアの子も 引き揚げ孤児の過酷な闘病生活
東広島市西条町にある広島新生学園が今秋、創立80年を迎えた。これは陸軍から復員した上栗(かみくり)頼登さんが45年10月に開いた「引揚民孤児収容所」が始まり。敷地内にある慰霊碑や納骨堂が当時の歴史を静かに伝えている。
この慰霊碑は、デルタ地帯の広島を表す三角石を中央に、平和の象徴である鳩の翼を表現している。その近くにある納骨堂には、上栗さんと戦災孤児など数人の遺骨とともに、収容所で亡くなった引き揚げ孤児10柱の骨つぼが納められている。骨つぼを包む白い布には、「南花子」「南千代子」など、名前が分からないまま亡くなった子どもの仮の名前が記されている。
広島新生学園は、原爆だった創設当時から収容所ができた。現園長の長男哲男さんは、上栗さんは生前「被爆した人たちを助けられなかった後悔から、親を失った孤児のためにできることをしたいと思った」と話していたという。
収容所は当初「孤児の死との戦いだった」という。送り込まれた孤児は栄養失調のほかマラリアなどを抱えていることが多く、物資不足の中で回復するのは簡単ではなかった。収容所には同年12月までに220人が収容され、うち40人が死亡したとされる。
翌46年4月に広島市西区に移転し、台湾や海南島などから帰還した子どもたちが入所するようになった。76歳で亡くなるまで園の運営を続けた長男哲男さんは「引き揚げ孤児と言われ、いじめられることが多かった学生時代だが、園には感謝の気持ちでいっぱいです」と振り返る。
現在は約2500人を養護した広島新生学園が80年を迎えた。園の歴史や引き揚げ孤児の過酷な闘病生活など、頼登さんから受け継いだ話を在籍する約60人に話した哲男さんは「この園ではかつて、多くの引き揚げ孤児が犠牲になった。今、平和に生活できることに感謝の気持ちを持ってほしいと子どもたちに伝え続けていきたい」と話している。
東広島市西条町にある広島新生学園が今秋、創立80年を迎えた。これは陸軍から復員した上栗(かみくり)頼登さんが45年10月に開いた「引揚民孤児収容所」が始まり。敷地内にある慰霊碑や納骨堂が当時の歴史を静かに伝えている。
この慰霊碑は、デルタ地帯の広島を表す三角石を中央に、平和の象徴である鳩の翼を表現している。その近くにある納骨堂には、上栗さんと戦災孤児など数人の遺骨とともに、収容所で亡くなった引き揚げ孤児10柱の骨つぼが納められている。骨つぼを包む白い布には、「南花子」「南千代子」など、名前が分からないまま亡くなった子どもの仮の名前が記されている。
広島新生学園は、原爆だった創設当時から収容所ができた。現園長の長男哲男さんは、上栗さんは生前「被爆した人たちを助けられなかった後悔から、親を失った孤児のためにできることをしたいと思った」と話していたという。
収容所は当初「孤児の死との戦いだった」という。送り込まれた孤児は栄養失調のほかマラリアなどを抱えていることが多く、物資不足の中で回復するのは簡単ではなかった。収容所には同年12月までに220人が収容され、うち40人が死亡したとされる。
翌46年4月に広島市西区に移転し、台湾や海南島などから帰還した子どもたちが入所するようになった。76歳で亡くなるまで園の運営を続けた長男哲男さんは「引き揚げ孤児と言われ、いじめられることが多かった学生時代だが、園には感謝の気持ちでいっぱいです」と振り返る。
現在は約2500人を養護した広島新生学園が80年を迎えた。園の歴史や引き揚げ孤児の過酷な闘病生活など、頼登さんから受け継いだ話を在籍する約60人に話した哲男さんは「この園ではかつて、多くの引き揚げ孤児が犠牲になった。今、平和に生活できることに感謝の気持ちを持ってほしいと子どもたちに伝え続けていきたい」と話している。