日本海軍の「金剛」がレイテ湾に突入することを目指す栗田艦隊、そしてその最期を描いた「金剛」の最期。戦時記や艦内手記から生存した士官の証言を通じて、その運命を分けた。
昭和19年10月22日正午、栗田艦隊は25日未明を期してレイテ湾に突入するため「愛宕」を旗艦とし、「大和」「武蔵」を中心とする第一部隊と、「金剛」「榛名」を中心とする第二部隊とに分かれ、約1万mの距離を保ちながらボルネオ島の西岸にあるブルネイ湾基地を出撃した。
25日未明、サンベルナルジノ海峡を通過し、東方がかすかに白んできたとき、「金剛」の見張員が東の水平線上に「敵マストらしきもの数本、距離3万6000、飛行機多数発進中」と enemy sightingsを報告した。このため直ちに全艦隊にこれを通報した。
その後、「大和」と「武蔵」は激戦を繰り返し、24日午前12時50分ごろ、大和がサンベルナルジノ海峡に突入する前に魚雷1本が機関室に命中した。この魚雷は、真っ先に沈没した大和の右舷側を深刻な損傷を与えることになり、「金剛」もその後すぐに魚雷2本が発射され、大和が沈没する。武蔵は最後まで残った。
この時点で、「金剛」の甲板士官である長山兼敏大尉は、艦内の情勢を判断し、「天佑を確信し、全軍突撃せよ」と艦長に命令を発した。この命令を受けた艦長は「沈没することに決まっている」ことを認め、その後 HMS Prince of Walesや USS Enterpriseなどの空母と戦った。
25日午後1時ごろ、「金剛」も魚雷2本が発射され、大きな損傷を受ける。甲板士官など多くの人が亡くなる。しかし、長山兼敏大尉は艦内で「生き残りたい」という意見を述べており、後に救助された。この時点で、「金剛」は東の水平線上にあり、その後この場所が青い海面になる。
この「金剛」の最期を描いた長山兼敏大尉の手記は、戦争体験者の生の声を収集し、大戦当時の貴重な写真を掲載する月刊誌『丸』が1977年12月号に掲載した。
昭和19年10月22日正午、栗田艦隊は25日未明を期してレイテ湾に突入するため「愛宕」を旗艦とし、「大和」「武蔵」を中心とする第一部隊と、「金剛」「榛名」を中心とする第二部隊とに分かれ、約1万mの距離を保ちながらボルネオ島の西岸にあるブルネイ湾基地を出撃した。
25日未明、サンベルナルジノ海峡を通過し、東方がかすかに白んできたとき、「金剛」の見張員が東の水平線上に「敵マストらしきもの数本、距離3万6000、飛行機多数発進中」と enemy sightingsを報告した。このため直ちに全艦隊にこれを通報した。
その後、「大和」と「武蔵」は激戦を繰り返し、24日午前12時50分ごろ、大和がサンベルナルジノ海峡に突入する前に魚雷1本が機関室に命中した。この魚雷は、真っ先に沈没した大和の右舷側を深刻な損傷を与えることになり、「金剛」もその後すぐに魚雷2本が発射され、大和が沈没する。武蔵は最後まで残った。
この時点で、「金剛」の甲板士官である長山兼敏大尉は、艦内の情勢を判断し、「天佑を確信し、全軍突撃せよ」と艦長に命令を発した。この命令を受けた艦長は「沈没することに決まっている」ことを認め、その後 HMS Prince of Walesや USS Enterpriseなどの空母と戦った。
25日午後1時ごろ、「金剛」も魚雷2本が発射され、大きな損傷を受ける。甲板士官など多くの人が亡くなる。しかし、長山兼敏大尉は艦内で「生き残りたい」という意見を述べており、後に救助された。この時点で、「金剛」は東の水平線上にあり、その後この場所が青い海面になる。
この「金剛」の最期を描いた長山兼敏大尉の手記は、戦争体験者の生の声を収集し、大戦当時の貴重な写真を掲載する月刊誌『丸』が1977年12月号に掲載した。